1: 2007-09-28 (金) 21:10:01 [5] | 現: 2008-11-26 (水) 13:55:26 ゲスト [6] | ||
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- | // author:1 | + | #contents |
- | // author_ucd:5PIDSWT45Jd6 tackmix | + | *ソースはどこか? [#g76cd431] |
- | #contents() | + | |
- | *ソースはどこか? | + | |
この話が有名になったのは、タモリの出演する2つの番組で紹介された事による。~ | この話が有名になったのは、タモリの出演する2つの番組で紹介された事による。~ | ||
おおよその内容は以下の通り。~ | おおよその内容は以下の通り。~ | ||
「織田信長は、戦の際に畳を弓矢や鉄砲から身を隠す盾として使おうと考え、大きさを1800mm×900mmとして定めた」~ | 「織田信長は、戦の際に畳を弓矢や鉄砲から身を隠す盾として使おうと考え、大きさを1800mm×900mmとして定めた」~ | ||
というものである。 | というものである。 | ||
- | *Tackmixの考察 | + | *Tackmixの考察 [#j9797f34] |
以下は、Tackmix個人の考察である。 | 以下は、Tackmix個人の考察である。 | ||
- | **番組の取材ソースはどこか? | + | **番組の取材ソースはどこか? [#oc5b01ef] |
私もこの番組を見ていたのですが、特にソースや記述の根拠などを示してはいませんでした。インターネット上で調べてみると、「織田信長が決めた」という記述は1つのサイトにのみ書かれています。~ | 私もこの番組を見ていたのですが、特にソースや記述の根拠などを示してはいませんでした。インターネット上で調べてみると、「織田信長が決めた」という記述は1つのサイトにのみ書かれています。~ | ||
また、城にある畳が防御用として考えられていたことは私も聞いていました。それは、ちょっと意味合いが違っていて「畳の大きさは人ひとりが隠れるのにちょうど良い大きさだったために応用しようと考えていたらしい。理由は、ワラが圧縮された畳は、鉄砲の弾や弓矢が通りにくいからである。」というものであり、「人ひとりが隠れられるようにした」ではありません。戦国時代は戦に対しての備えは重要なことであり、あるお城では、畳床を通常の稲ワラではなく、食用の植物(確か芋系だった)で作っていたようです。~ | また、城にある畳が防御用として考えられていたことは私も聞いていました。それは、ちょっと意味合いが違っていて「畳の大きさは人ひとりが隠れるのにちょうど良い大きさだったために応用しようと考えていたらしい。理由は、ワラが圧縮された畳は、鉄砲の弾や弓矢が通りにくいからである。」というものであり、「人ひとりが隠れられるようにした」ではありません。戦国時代は戦に対しての備えは重要なことであり、あるお城では、畳床を通常の稲ワラではなく、食用の植物(確か芋系だった)で作っていたようです。~ | ||
上記サイトが、これらの内容を混同して記載してしまったのではないかと思います。 | 上記サイトが、これらの内容を混同して記載してしまったのではないかと思います。 | ||
- | **直接肯定できる資料はあるのか? | + | **直接肯定できる資料はあるのか? [#s68e1946] |
残念ながら、どんな書物を調べても「織田信長が畳の大きさを決めた」という記述はありません。 | 残念ながら、どんな書物を調べても「織田信長が畳の大きさを決めた」という記述はありません。 | ||
- | **直接否定できる資料はあるのか? | + | **直接否定できる資料はあるのか? [#l31751f1] |
これも、残念ながら安土城が焼失しており窺い知ることができません。 | これも、残念ながら安土城が焼失しており窺い知ることができません。 | ||
- | **3つの疑問点 | + | **3つの疑問点 [#y0d6a224] |
ここには、3つの疑問が出てきています。~ | ここには、3つの疑問が出てきています。~ | ||
以下に考えを述べます。 | 以下に考えを述べます。 | ||
- | ***本当に畳の大きさを決めたのか? | + | ***本当に畳の大きさを決めたのか? [#g58efb8c] |
-畳は、鎌倉時代から室町時代にかけて、現在の和室と同じように、部屋内に敷きつめて、床材として使用しはじめますが、それまでは、板の間の生活が殆どで、寝具や高貴な人の権力の象徴としての「置き畳」的な使われ方がされていました。~ | -畳は、鎌倉時代から室町時代にかけて、現在の和室と同じように、部屋内に敷きつめて、床材として使用しはじめますが、それまでは、板の間の生活が殆どで、寝具や高貴な人の権力の象徴としての「置き畳」的な使われ方がされていました。~ | ||
(現存する最古の畳は、正倉院にある聖武天皇が使用したとされる物で、現存する最古~ | (現存する最古の畳は、正倉院にある聖武天皇が使用したとされる物で、現存する最古~ | ||
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-この場合、細かい目盛がある定規は必要なく、せめて一間の長さと半間の長さが判れば大丈夫だったのでしょう。その一間が6尺3寸だろうと、6尺5寸だろうと、あまり意味はなかったと思われます。モジュールの単位としての「一間」が「共通である」ということが重要なのですから。 | -この場合、細かい目盛がある定規は必要なく、せめて一間の長さと半間の長さが判れば大丈夫だったのでしょう。その一間が6尺3寸だろうと、6尺5寸だろうと、あまり意味はなかったと思われます。モジュールの単位としての「一間」が「共通である」ということが重要なのですから。 | ||
-日本各地で畳の大きさが違うのも、ここに原因があるのですが、「地方で偏りがある」ということが重要なのではなく「その地方で共通の長さ」であるということです。このように、地域によって畳の大きさが共通しているのは何故でしょう?これは、その時代の中心地や文化が広がるのと同時に、検地が行われたから、と考えています。 | -日本各地で畳の大きさが違うのも、ここに原因があるのですが、「地方で偏りがある」ということが重要なのではなく「その地方で共通の長さ」であるということです。このように、地域によって畳の大きさが共通しているのは何故でしょう?これは、その時代の中心地や文化が広がるのと同時に、検地が行われたから、と考えています。 | ||
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-検地というと、豊臣秀吉の太閤検地が有名ですが、その前後にも検地は行われています。織田信長と徳川家康です。織田信長の検地は、自己申告制ではありましたが、土地の広さを測る単位、1辺は一間とされており、それが6尺5寸であったことがわかっています。太閤検地は6尺3寸が一間、徳川時代は6尺0寸でした。これは、主に増税目的だったといわれています。~ | -検地というと、豊臣秀吉の太閤検地が有名ですが、その前後にも検地は行われています。織田信長と徳川家康です。織田信長の検地は、自己申告制ではありましたが、土地の広さを測る単位、1辺は一間とされており、それが6尺5寸であったことがわかっています。太閤検地は6尺3寸が一間、徳川時代は6尺0寸でした。これは、主に増税目的だったといわれています。~ | ||
ちなみに、太閤検地の6尺3寸=1間というのは、当時の長さを現在の定規で測ってみると6尺3寸であった、というのではなく、明確に定められており、国指定重要文化財として唯一現存する「検地尺」によって窺い知れます。検地尺は、檜板製で表には2つの×印が1尺の距離で記されており、その10等分として目盛があり、1尺=10寸となっています。そして、石田三成の花押と署名があり、裏面には「この寸をもって、六尺三寸を壱間にあい定め候て、五間に六十間を壱反に仕るべく候なり」と記されており、当時の1間が6尺3寸であったことが、明確になっています。これは、同時にそのころには、ある程度正確な寸単位の基準がどこかにはあったことが判ります。 | ちなみに、太閤検地の6尺3寸=1間というのは、当時の長さを現在の定規で測ってみると6尺3寸であった、というのではなく、明確に定められており、国指定重要文化財として唯一現存する「検地尺」によって窺い知れます。検地尺は、檜板製で表には2つの×印が1尺の距離で記されており、その10等分として目盛があり、1尺=10寸となっています。そして、石田三成の花押と署名があり、裏面には「この寸をもって、六尺三寸を壱間にあい定め候て、五間に六十間を壱反に仕るべく候なり」と記されており、当時の1間が6尺3寸であったことが、明確になっています。これは、同時にそのころには、ある程度正確な寸単位の基準がどこかにはあったことが判ります。 | ||
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-同様な理由で、一間の長さが時代と地域によって変わってしまい、各地の畳の大きさが検地などによって「結果的に」「その地域の畳の大きさ」として共通化されたのだと考えます。 | -同様な理由で、一間の長さが時代と地域によって変わってしまい、各地の畳の大きさが検地などによって「結果的に」「その地域の畳の大きさ」として共通化されたのだと考えます。 | ||
- | ***それは1800mm×900mmだったのか? | + | ***それは1800mm×900mmだったのか? [#s962c15d] |
これは、前出の通りあり得ないだろうと思います。掻い摘みますと、以下のようなことです。 | これは、前出の通りあり得ないだろうと思います。掻い摘みますと、以下のようなことです。 | ||
-当時の建築基準の一間が6尺5寸であり、畳の大きさはそれ以前から6尺3寸(1910mm×955mm)である。ここで唐突に1800×900がでてくるのは不自然。 | -当時の建築基準の一間が6尺5寸であり、畳の大きさはそれ以前から6尺3寸(1910mm×955mm)である。ここで唐突に1800×900がでてくるのは不自然。 | ||
Line 55: | Line 54: | ||
その大きさが「一間は6尺5寸として・・・」が建築物にまで影響したのだとすれば、それは「中京間の地域では」という解釈も成り立ちます。 | その大きさが「一間は6尺5寸として・・・」が建築物にまで影響したのだとすれば、それは「中京間の地域では」という解釈も成り立ちます。 | ||
- | **結論 | + | **結論 [#tcba1599] |
これまでの内容から推察するに~ | これまでの内容から推察するに~ | ||
「織田信長は、戦の際に畳を弓矢や鉄砲から身を隠す盾として使おうと考え、大きさを1800mm×900mmとして定めた」~ | 「織田信長は、戦の際に畳を弓矢や鉄砲から身を隠す盾として使おうと考え、大きさを1800mm×900mmとして定めた」~ | ||
- | というのは、誤りである可能性が非常に高い。 | + | というのは、&font(13pt){&font(b){誤りである可能性が非常に高い};。}; |
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+ | *出典 [#s7feadad] | ||
+ | 上記内容は、Tackmix自身がtatami-shop.net内ブログにて記述した物を再編集したものです。 | ||
+ | #ping(http://www.tatami-shop.net/modules/weblog/weblog-tbb.php?77) | ||
+ | #ping(http://www.tatami-shop.net/modules/weblog/weblog-tbb.php?78) | ||
+ | #ping(http://www.tatami-shop.net/modules/weblog/weblog-tbb.php?79) | ||
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+ | **放送事例 [#oed211fd] | ||
+ | 2008年11月26日 笑っていいとも にて、再び「畳の大きさを決めたのは織田信長」との紹介がされる。 |
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