// author:1 // author_ucd:5PIDSWT45Jd6 tackmix #contents *ソースはどこか? この話が有名になったのは、タモリの出演する2つの番組で紹介された事による。~ おおよその内容は以下の通り。~ 「織田信長は、戦の際に畳を弓矢や鉄砲から身を隠す盾として使おうと考え、大きさを1800mm×900mmとして定めた」~ というものである。 *Tackmixの考察 以下は、Tackmix個人の考察である。 **番組の取材ソースはどこか? 私もこの番組を見ていたのですが、特にソースや記述の根拠などを示してはいませんでした。インターネット上で調べてみると、「織田信長が決めた」という記述は1つのサイトにのみ書かれています。~ また、城にある畳が防御用として考えられていたことは私も聞いていました。それは、ちょっと意味合いが違っていて「畳の大きさは人ひとりが隠れるのにちょうど良い大きさだったために応用しようと考えていたらしい。理由は、ワラが圧縮された畳は、鉄砲の弾や弓矢が通りにくいからである。」というものであり、「人ひとりが隠れられるようにした」ではありません。戦国時代は戦に対しての備えは重要なことであり、あるお城では、畳床を通常の稲ワラではなく、食用の植物(確か芋系だった)で作っていたようです。~ 上記サイトが、これらの内容を混同して記載してしまったのではないかと思います。 **直接肯定できる資料はあるのか? 残念ながら、どんな書物を調べても「織田信長が畳の大きさを決めた」という記述はありません。 **直接否定できる資料はあるのか? これも、残念ながら安土城が焼失しており窺い知ることができません。 **3つの疑問点 ここには、3つの疑問が出てきています。~ 以下に考えを述べます。 ***本当に畳の大きさを決めたのか? -畳は、鎌倉時代から室町時代にかけて、現在の和室と同じように、部屋内に敷きつめて、床材として使用しはじめますが、それまでは、板の間の生活が殆どで、寝具や高貴な人の権力の象徴としての「置き畳」的な使われ方がされていました。~ (現存する最古の畳は、正倉院にある聖武天皇が使用したとされる物で、現存する最古~ の畳敷きの建物は銀閣と言われています。) -おそらく、その時代の建築モジュールが、畳の大きさにも関係があり、いわゆる「京間、~ 本間、本間間」の関西・中国・四国・九州の3尺1寸5分×6尺3寸(955mm×1910mm)のサイズであったのだろうと思われます。 -人間の歴史の中で、長さや重さなど、数量を測る必要性はかなり昔から認識されており、親指から人差し指までの間の距離や、両手を広げたときの長さなど「数量を合わせる方法」は古代から工夫されていました。現物同士を並べるほかに数値を合わせたいとすれば、我々は定規を使います。日本最古の定規は、7世紀頃の物が出土していますが、これとて現在の全長に渡って目盛と数値が書かれているものではなく、切り込みが何ヶ所かはいっているだけで、書物の行間を揃えたりするための物だったと考えられています。~ この場合も「あっちと同じ長さ」という感覚だけです。 -日本家屋ではどうだったかというと、畳に限らず、建具や柱の間隔が全て、一間(いっけん)を基準としていたことが判ります。これは、元々両手を広げたときの長さだとされていますが、この長さは人間ひとりの空間としては便利な長さだったのではないでしょうか?~ よって、建物の基準が、一間や半間が基準となっていったと思われます。~ この一間とい
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